経済と環境どちらが大事?そんな問いは、実は現実的ではないのかもしれません。地球の上で経済活動を行う以上、どんな資源であっても地球からと取り出して、いらなくなったらまた地球に戻さなくてはいけないですからね。
ところが、人工的なものに囲まれた生活をしていたり、数字を動かしたりすることに明け暮れていたりする私たちは、経済や生活が、地球に支えられているという感覚を失いがちです。経済の規模が大きくなるほど、地球から取り出すものと戻すものが増えていきます。数字は無限ですが、地球は有限です。無限の成長に、地球は耐えられません。
危機に瀕しているのは地球だけではありません。経済の成長とともに、私たちの欲望もまたどんどん大きくなっていっています。欲望と同時に、大きくなるのが、満たされない苛立ち。こうした苛立ちは、社会不安の原因にもなりますよね。
本書は、地球、そして人間の持続可能性のために「仏教経済学」が必要だと提案しています。経済と仏教という組み合わせは意外ですよね。ところが、「仏教経済学」というのは何も新しい概念ではありません。シューマッハーの「スモール・イズ・ビューティフル」の第1章はまさに「仏教経済学」。西洋的な社会の限界が語られ始めた時代から、東洋の社会に大きな影響を与え続けてきた仏教の考え方は注目されていたのです。
西洋の文化のベースになっているキリスト教が人間中心であるのに対し、東洋の文化のベースとなっている仏教は、自然や宇宙が中心の文明観をもっています。その背景にあると考えられるのが、狩猟と農耕という、生活のベースの違いです。
狩猟は自分たちががんばればがんばるほど収穫が増えるのに対し、農耕は自然に左右される部分が大きく、思うようにいかないことが多いですよね。古代インドのサンスクリット語では「苦」という言葉は、「思うようにならない」という意味だそうです。人間の社会は「思うようにならない=苦」ということを前提に、その中でどう生きるのが幸せなのか。そこを考えるのが仏教なのですね。
仏教では、苦から解き放たれるためには、「思うようにしたい心」への執着を捨てることが大切だと説きます。欲望に縛られず、なにものにもとらわれない自由な心の境地。それが、「涅槃」という仏教の理想の境地なのです。
自然とともに、自らの欲望をコントロールして生きる。限りある自然資本を前提に、成長を目的としない持続可能な経済のひとつのヒントがここにありますね。
また、農耕文化のもうひとつの特徴として挙げられるのが、集落の人間で自然資本を分かち合い、協力し合わなければいけない点です。江戸時代は商売においても、自分の商売がうまくいくには、他人から信用されることが不可欠でした。自分の利益だけではなく、他人の利益の中で自分の利益を考える、という姿勢が大事なのですね。
ここにもまた、経済へのヒントがあります。環境を破壊し、人を酷使し、社会を不安定にする経済ではなく、宇宙という大きな命の一部として、自然と人とのつながりを第一に考えるのが、持続可能な経済を考える上では不可欠なのです。
経済的な幸せは、以下のような式で表すことができます。
経済的な幸せ=財/欲望
西洋的な考えでは財を増やすことで、仏教的な考えでは欲望を減らすことで、経済的な幸せを大きくすることができます。地球が有限であり、成長にも限界があるとすれば、仏教的な考えをとることも現実的な答えのように思えますね。
仏教は、紀元前三世紀前後にインドを統一したアショーカ王のもとで発展しました。アショーカ王は、仏教心理学の立場から、「まことの安らぎは、単に経済的安らぎを超えた、もっと深いものでなければならぬ」という信念をもっていたそうで、例えば道をつくるのにも、交通の便と安全を図った上で、緑を確保するといった政策をととっていたそうです。今でいう、環境政策をとりいれた公共事業ですね。いま直面している課題について、私たちははるか遠い時代の賢人に学ぶべきなのかもしれません。
仏教の教えというと、精神的な安らぎのために学ぶものというイメージがありますが、そのエッセンスには、いま行き詰まっている経済をこれから先につないでいくためのヒントとして活用できるものがたくさんあるのですね。
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